EngawaYogaでは、日々の生活にヨガを取り入れることを推奨しています。
ただ、ここで言うヨガとは、単に身体を柔らかくしたり、アクロバティックな難しいポーズ(アーサナ)をとったりすることだけを指しているわけではありません。
ヨガとは本来、生き方そのものであり、私たちが自分自身と、そして世界とどのように関わっていくかという「態度の変容」を促すための壮大な哲学なのです。
現代社会は、私たちに常に「速さ」や「成果」、そして「他者との競争」を求め続けます。
情報過多な環境の中で、心身ともに疲弊している方も多いのではないでしょうか。
そんな時代だからこそ、マットの上で、あるいは日常のふとした瞬間に思い出してほしい「四つの大切なポイント」があります。
これは、約2000年前に編纂されたヨガの根本経典『ヨーガ・スートラ』に記された普遍的な智慧であり、私たちが過剰な力みを手放し、健やかに生きるための指針となるものです。
もくじ.
アビヤーサ(修習):情熱の炎を絶やさず、淡々と続けること
一つ目の智慧は「アビヤーサ」です。
日本語では「修習」や「実践」と訳されますが、その本質は極めてシンプルに「ただ続けること」を意味します。
現代を生きる私たちは、どうしてもタイパ(タイムパフォーマンス)を意識し、すぐに結果を求めがちです。
「1ヶ月でマイナス5キロ」「3ヶ月で開脚ができるようになる」
そういった即効性や分かりやすい成果を求めるあまり、少しやって効果が見えないとすぐに挫折してしまったり、次から次へと新しいメソッドや流行のダイエットに飛びついたりしてしまいます。
しかし、ヨガがもたらす本質的な変化は、植物が根を張り、芽を出すように、極めてゆっくりとしたものです。
それを芽を引っ張ってしまっては壊れてしまいます。
今日の練習が、すぐに明日の花になるとは限りません。
それでも、水をやり続けること。
雨の日も風の日も、調子が良い日も悪い日も、ただ淡々と、決まった時間にマットの上に立つこと。
この「淡々とした継続(ルーティン)」こそが、アビヤーサの神髄です。
短期的な情熱の炎を一気に燃やし尽くして燃え尽きるのではなく、種火のように絶やさず、長く静かに灯し続けること。
その静かで地道な積み重ねだけが、私たちの心身の土壌を深く耕し、揺るぎない基盤(グラウンディング)を作ってくれるのです。
ヴァイラーギャ(離欲):結果への執着を手放すこと
二つ目の智慧は「ヴァイラーギャ」です。これは「離欲」や「無執着」と訳されます。
先ほどのアビヤーサ(続けること)と大体セットで語られる、ヨガ哲学において非常に重要な概念です。
一生懸命に練習はする(アビヤーサ)。しかし、その結果には一切執着しない(ヴァイラーギャ)。
これは、効率と成果を最優先する現代の資本主義的な価値観とは、真逆の考え方かもしれません。私たちは通常、何らかの「成果」を得るために努力をするからです。
「これだけやったのだから、報われるべきだ」「もっと上手くなりたい、認められたい」
そういった期待やエゴ(自我)の執着は、過剰なポテンシャルを生み出し、逆に私たちの心と身体を縛り、苦しみを生み出す原因となります。
ポーズができるようになってもならなくても、どちらでもいい。
痩せても痩せなくても、私の存在価値は変わらない。ただ、「今、ここでの行為そのもの」に没頭し、結果は宇宙の法則に委ねてしまうこと。
これをインドの古典『バガヴァッド・ギーター』では「カルマ・ヨガ(行為のヨガ)」と呼びます。
結果への期待という重い荷物を下ろしたとき、私たちの行動は純粋なフロー状態となり、不思議と物事は最もスムーズな形で運び始めるのです。
努力はするけれど、必死にはならない。深刻さを捨てて、遊び心を持つ。この絶妙なバランス(中庸)の中に、ヨガの極意が隠されています。
サントーシャ(知足):今あるものに寛ぎ、感謝すること
三つ目は「サントーシャ」。「足るを知る」という教えです。
私たちは日常生活の中で、常に「不足」の感覚に追われ、満たされない思いを抱えています。
もっとお金があれば、もっと時間があれば、もっとスタイルが良ければ、幸せになれるのに。
そうやって「ないもの」ばかりを数え上げ、今の自分を否定し続けているのが現代人の姿です。
ヨガの教えは、その欠乏の視点を180度転換させます。
今、自発呼吸ができていること。
自分の足で歩き、身体が動くこと。
今日という新しい一日を迎えられたこと。
外側に何かを付け足すのではなく、すでに自分の中に「あるもの」に目を向け、その絶対的な豊かさを味わうこと。
これはアーサナの練習においても全く同じことが言えます。
「もっと深く前屈しなければ」と無理をして筋肉を固めるのではなく、「今の私の身体は、ここまで曲がってくれている」と、自分の身体の現状に感謝すること。
その受容の心(サントーシャ)が生まれたとき、身体は「責められていない」と安心し、結果として自然と緩み、可動域も広がっていくのです。
幸せは、何かを獲得した未来の先にあるのではありません。今の瞬間に「これで十分だ」と寛げる、満ち足りた心の中にこそ存在しているのです。
イーシュヴァラ・プラニダーナ(祈念):大いなる流れに身を委ねること
最後、四つ目は「イーシュヴァラ・プラニダーナ」です。
これは少し宗教的な響きを持つかもしれませんが、現代的に言えば「神への献身」あるいは「大いなる存在への明け渡し(サレンダー)」を意味します。
放下するとも言われるものです。
特定の宗教の神様を信じなさい、という意味ではありません。
自分という小さな個人の力(エゴのコントロール欲求)を超えた、もっと大きな自然の摂理や、生命の不可思議な働きに対する「敬意と信頼」を持つということです。
私たちはつい「自分の力で人生をコントロールしている」「すべては自分の意志次第だ」と思いたがります。
しかし実際には、今この瞬間心臓を動かしているのも、季節が巡るのも、私たちの頭の意志ではありません。
すべては、人智を超えた大きな流れの中で生かされているのです。
その圧倒的な事実に気づき、「私が、私が」という我執(過度な自意識)を手放すこと。
無理に状況をコントロールしようと足掻くのをやめて、川の流れに身を任せるように、宇宙の働きにすべてを委ねてみること。
「まな板の上の鯉」のような心境と言ってもいいかもしれません。
そうやってエゴを明け渡し、完全に脱力したとき、私たちは孤独な戦いから解放され、世界全体と一体になったような深い安心感と静寂(まさにヨガ=結合の状態)を得ることができるのです。
終わりに:マットの上の気づきを、日常の縁側へ
情熱を持って続けること、結果への執着を手放すこと、今あるものに満ち足りること、そして大いなる流れに委ねること。
これら4つのポイント(アビヤーサ、ヴァイラーギャ、サントーシャ、イーシュヴァラ・プラニダーナ)は、決してヨガマットの上だけのルールではありません。
仕事でのプレッシャー、人間関係の悩み、子育てのイライラなど、私たちの人生のあらゆる場面で、重くなった心を軽くし、正しい方向へと導いてくれる実践的な哲学です。
現代社会の荒波の中で、もし息苦しさを感じたり、迷うことがあったりしたら、ぜひこの四つの智慧を思い出してみてください。
そして、たまには家の縁側に座るような気持ちで、ただ風を感じ、呼吸をするだけの余白の時間を持ちましょう。
難しく修行のように考える必要はありません。
過剰なポテンシャルを手放し、ただそこにある命の響きに耳を澄ませたとき、あなたのヨガはすでに始まっているのですから。
ではまた。
よくある質問(Q&A)
Q. 「結果に執着しない(ヴァイラーギャ)」と、「目標を持たない」ことの違いは何ですか?目標がないと頑張れない気がします。
A. 非常に重要な視点ですね。ヨガにおいて「結果に執着しない」とは、目標を持つこと自体を否定しているわけではありません。たとえば「このポーズができるようになりたい」という目標を持つことは、行動を起こすための素晴らしいエネルギー(アビヤーサ)になります。
違いは、「結果が出なかったときの心の状態」にあります。目標に執着していると、思い通りにいかなかった時に自分を責めたり、ヨガ自体をやめてしまったりと、苦しみが生まれます。一方、ヴァイラーギャ(無執着)の状態では、「目標に向かって練習する過程そのものが楽しい」と感じられます。結果はあくまでオマケであり、プロセス(今この瞬間の行為)に100%没頭している状態です。目標を「目印」として使いつつも、それに振り回されない心の余裕を持つことが、執着を手放すということです。
Q. 「サントーシャ(足るを知る)」を意識すると、現状に満足してしまい、成長が止まってしまう気がして不安です。どう考えればよいでしょうか?
A. 現代の競争社会にいると、「満足=停滞」と考えてしまいがちですが、東洋思想の観点ではむしろ逆のアプローチとなります。「今の自分はダメだから、もっと頑張らなきゃ」という自己否定をベースにした成長は、常にストレスと力みを伴い、いずれガス欠(燃え尽き症候群)を起こします。
本当のサントーシャとは、「今のままでも十分に素晴らしいし、完璧だ」と自分の土台をしっかり肯定することです。その絶対的な安心感(土台)があるからこそ、余計な力みが抜け、リラックスした状態で好奇心や遊び心が湧き上がってきます。「ダメだからやる」のではなく、「満たされているけれど、さらに探求するのが楽しいからやる。それが起こる。」このプラスのエネルギーから生まれる行動こそが、無理のない、そして最も持続可能な本質的成長(進化)をもたらしてくれるのです。



